労災保険制度とは、会社の業務によって、労働者(従業員)がケガや病気にかかってしまった場合に、会社の責任を、保険によってカバーする制度です。
最近では、長時間労働による過労死、過労自殺、メンタルヘルスなどが社会問題化しています。そのため、会社による長時間労働により、労働者(従業員)が病気になってしまった場合の労災責任について、労災保険が問題となります。
労災で療養している期間中には解雇ができないと法律で決められていますから、会社に在職している最中から労災保険を受給している場合には、労災保険で療養し続けることができるのは当然です。
これに対して、長時間労働の結果、もはや会社に居続けることはできない場合、労災保険の保護を受けることができるのか、ご不安な方の法律相談をお受けすることがあります。
また、過労死、過労自殺など、すでに労働者(従業員)がお亡くなりになってしまった場合も同様に、労働者ではなくなった後に、会社の責任を追及することとなります。
結論からいって、退職後であっても労災保険を受給することは可能ですし、退職後であっても、会社へ労災の責任追及をすることができます。
今回は、退職後に、労働者(従業員)が、会社に対して安全配慮義務違反の責任を追及するときの方法も合わせて、弁護士が解説します。
目次
1. 退職前後に問題となる労災保険の基本
使用者(会社)は、労働者(従業員)に対して、安心してはたらいてもらえる労働環境を提案する義務があります。
つまり、心身の安全をまもる義務があるということです。これを、労働法の専門用語で「安全配慮義務」といいます。
労働者(従業員)が会社に対して安全配慮義務を追及し、救済を得るためには、次のようなことが不可欠となります。
- 会社に帰責事由(故意、過失など)が認められること(証明できること)
- 会社に、責任を負うだけの資力(財産)が存在すること
つまり、会社に責任があるのかどうかは、原則としては労働者(従業員)の側で証明をしなければいけないこと、加えて、会社にまったく財産がない場合には、労働者(従業員)側としても救済を受けることができないこと、という2つのリスクがあります。
この2つの労働者のリスクに対し、労災保険は、会社に故意、過失がなかったとしても、業務によって起こった損害について補償がなされます。
また、会社が労災保険料を支払っていれば、会社に財産がまったくなかったとしても、労働者に対して、労災保険給付が支払われます。
2. 労災保険を受給している最中に退職するケース
退職の前後に労災事故が起きてしまった場合の、1つ目の問題点は、労災保険を受給している最中に退職してしまったケースで起こります。
つまり、「労災保険を受給している最中に退職したら、労災保険は止まってしまうのか?」という問題です。
結論から申しますと、労災保険を受給中に退職しても、労災保険の給付にはなにも影響はありません。つまり、退職後も、給付を受け続けることができるということです。
労災によって生じたケガ、病気などによるダメージが大きければ大きいほど、「これ以上迷惑をかけられない。」とか「一度退職をして療養に専念したい。」という思いから、退職を決意される労働者の方が多いですが、この場合に労災による保護を受けられないのでは、元も子もありません。
在職中に、労災保険給付を受けて休業をした場合、休業を開始して3日経過しますと「休業補償」という形で労災給付を受けることができます。
労災によって休業をする最初の3日間は、休業補償給付が支給されません。
そのため、労災による休業のうち最初の3日間については、会社に休業補償を請求する必要があります。
休業補償給付を受けている最中の労働者(従業員)が、自分から退職を選択する場合であっても、労災の給付は支払われ続けますし、その金額が減ることもありません。
このことは、「労災保険法」という法律でも、次のようにルールが定められています。
労災保険法12条の5
- 保険給付を受ける権利は、労働者の退職によつて変更されることはない。
- 保険給付を受ける権利は、譲り渡し、担保に供し、又は差し押さえることができない。ただし、年金たる保険給付を受ける権利を独立行政法人福祉医療機構法 (平成十四年法律第百六十六号)の定めるところにより独立行政法人福祉医療機構に担保に供する場合は、この限りでない。
したがって、自発的な退職であっても、休業補償給付の支払は続けられます。
そして、このことは、退職の理由によっては変わりません。自発的な退職、すなわち「辞職」である場合はもちろんのこと、定年退職や、契約期間の満了による退職であっても、同様に労災保険の給付は続けて受けることができます。
3. 退職後、労災保険の手続きをするケース
次に、前章で解説したケースとは逆の順序になった場合、つまり、退職後にはじめて、労災保険を受給したいと思い立って手続きをすることが可能かどうかについて、弁護士が解説します。
前章は「労災保険の受給 → 退職」という順序でしたが、この章で解説するのは「退職 → 労災保険の受給」という順序です。
結論から申しますと、この順序である場合にも、労働者の救済が可能です。つまり、退職後であっても、労災保険の受給を開始することが可能であるということです。
会社を退職してしまったという理由だけで、労働者(従業員)が労災申請をすることができなくなることはありませんから、ご安心ください。
労働者(従業員)が労災によって負ったダメージが大きければ大きいほど、「後遺障害」が生じる場合など、ダメージが長く続くケースが多くなります。
このような重い労災事故の場合ほど、退職してからはじめて労災による損害がわかり、労災申請をするというケースが増えてきます。そのため、退職後であっても、労災である場合には労災申請が可能であるということになっています。
3. 退職前後に労災申請するときの注意点
以上の解説からご理解いただけますとおり、退職前であっても退職後であっても、「会社を退職したかどうか。」ということと労災申請とは、無関係です。
あくまでも、在職中に、業務によって負ってしまったケガ、病気であれば、労災申請をし、労災保険給付を受けることができます。
しかし、「退職」というのは、労働者(従業員)と使用者(会社)との間の関係を変える、非常に重要なイベントです。
そのため、いくら法律上問題ないとはいっても、使用者(会社)の協力が得られないなど、労災申請に多くの不都合があるおそれがあります。退職前後に労災申請をするときの注意点について、弁護士が解説します。
3.1. 会社が労災申請に協力してくれないときは?
労災保険の給付を受けようとする場合には、労災申請をしなければなりません。
このとき、療養補償給付を受ける場合であっても、休業補償給付を受ける場合であっても、申請用紙には「事業主の証明」というものが必要な欄があります。
これは、労災が発生した年月日や、労災の原因、発生状況について、労災の責任を負う会社が、証明をしなければいけないというものです。
しかし、退職前後に労災申請をする場合には、退職自体がトラブルになっている場合など、会社が労災申請に協力してくれないことがあります。つまり、会社が、労災申請に対して「事業主の証明」に記載、押印をしないというケースです。
会社が事業主の証明に協力してくれない場合であっても、労災申請をあきらめる必要はありません。
「労災であるかどうか。」を判断、決定するのは、会社(事業主)ではなく、申請を受けた労働基準監督署が調査をして決定するものです。事業主の証明は、労働基準監督署の判断の参考となるものに過ぎません。
事業主の証明が得られなかった理由を説明して労災申請をすれば、受理してもらえますので、すでに会社を退職し、会社とトラブルとなっていたとしても、労災保険給付を受けることに不都合はありません。
3.2. 労災は「時効」がないの?
労災給付にも、時効(消滅時効)がさだめられています。そのため、長期間の間労災を請求しないと、労災保険給付が受けられなくなってしまうことがあります。
労災給付の時効期間は、次のとおりです。
保険給付の種類 | 時効の起算点 | 時効期間 |
---|---|---|
療養(補償)給付 | 療養に要する費用の支出が具体的に確定した日の翌日 | 2年 |
休業(補償)給付 | 労働不能のため賃金を受けない日ごとにその翌日 | 2年 |
葬祭料・葬祭給付 | 労働者が死亡した日の翌日 | 2年 |
障害(補償)給付 | 傷病が治った日の翌日 | 5年 |
遺族(補償)給付 | 労働者が死亡した日の翌日 | 5年 |
介護(補償)給付 | 介護補償給付の対象となる月の翌月の1日 | 2年 |
二次健康診断等給付 | 一次健康診断の結果を知り得る日の翌日 | 2年 |
労災保険給付には、消滅時効がありますので、給付ができるのに放置しておくことはおススメできません。とはいえ、後遺障害が生じるケースなどでは、何年、何十年とたってからしか労災申請をすることができないケースも少なくありません。
労災保険給付の消滅時効には、起算点がありますから、この起算点が来ていないのであれば、まだ消滅時効を気にする必要はありません。
例えば、遺族補償給付は、労働者が死亡してからはじめて消滅時効が進行しますし、休業補償給付は、労働者がはたらけなくなってからはじめて消滅時効が進行します。
したがって、退職後に労災申請する場合には、(無駄に放置していたという場合でなければ)消滅時効をことさらに気にする必要はない場合が多いといえます。
労災保険給付は、会社に資力(財産)がないという場合をカバーするという目的もあります。そのため、会社を退職してから相当期間が経過しており、すでに会社が倒産、解散などによって存在しない場合であっても、労災保険からの給付を受けることができます。
したがって、労災であると認定されそうな場合には、あきらめず労災申請をするようにしましょう。
4. 会社に対する損害賠償請求も忘れず!
労災保険給付を受け取っている場合であっても、会社に対して、これとは別に損害賠償を請求できるケースがあります。
会社は、労働契約(雇用契約)によって、労働者(従業員)を、安全にはたらかせる義務を負っています。これを「安全配慮義務」といいます。
この義務に違反して、会社が労働者に対してケガ、病気をおわせた場合、その損害を賠償しなければいけないということです。
安全配慮義務違反の損害のうち、一部は、労災保険でカバーされていますが、すべてが補償されているわけではありません。たとえば、労働者から会社に対して請求すべき「慰謝料」は、労災ではカバーされていません。
一方で、「労災である。」と認定を受けることができたからといって、安全配慮義務違反がかならずしも認められるわけではありません。
したがって、労働者(従業員)としては、労災の認定を受けたら、あらためて、安全配慮義務違反があるかどうかをチェックし、義務違反がある場合には損害賠償を請求することとなります。
そして、安全配慮義務違反の損害賠償請求もまた、労災申請と同様に、会社を退職した後であっても当然可能です。
5. まとめ
不幸にも労災にあってしまい、過労死、過労自殺、メンタルヘルスなどの問題に直面した場合に、かならずしも労働者(従業員)の側から、自発的に退職を決意する必要はありません。
むしろ、労災を理由に会社が一方的に解雇することは法律で禁じられていますから、安心して労災の療養をしてよいはずです。
しかし、「これ以上こんな会社にいたくない。」と考える労働者の方も多く、それは当然理解できることです。退職をしてしまった場合であっても、退職の前後を問わず、労災保険を受給できることに変わりはありません。
これは、会社が労災申請に非協力的である場合であっても同様です。
長時間労働、労災などで退職するかどうか、お悩みの労働者の方は、労働問題に強い弁護士へ、お気軽に法律相談ください。